【Vol.317】うらぶれないで

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 楽しくもあり、少し寂しい話もある。それが同窓会です。

 先日も、気の合う10人ほどが集まることになりました。皆、東京に出てきて40年を超えて、すっかり東京暮らしが身に付いた者ばかりです。この歳になりますと、子育ても終わり、子供の婚活や孫の話で盛り上がります。
 このあたりの話は楽しいのですが、避けて通れない寂しい話もあるのです。それが、定年後はどうするか、そういう話です。
 殆どの同窓生は会社勤め、それも大会社に勤めていて、それはそれでしっかりと退職金も支給され、経済的な心配はないのですが、残念ながら、次の仕事の当てはないようです。まあ、ビルの管理人とか、いわゆるシルバーさんと言われる仕事はあるのですが、部長や役員まで上り詰めたキャリアと言いますか、プライドと言いますか、それが邪魔になっているようです。
 で、ほとんどの友人は、「しばらく旅行でもして、のんびり考える」と言うのです。

 幸いと言いますか、結果オーライと言いますか、私は定年も転職も無いので、そのような心境になったことはありませんし、たぶん、これからも無いでしょう。
 しかし、私にも言えること、それは、定年あるいは転職を、もっと前向きに捉えることが大事なことではないかと思うのです。
 確かに、自分の意志に反して会社の都合で退職させられるのは、如何ともし難い制度ではありますが、その現実をもっと前向きに認め、例えば、自分の人生を40年前に戻す、そのチャンスと考えることは出来ないのでしょうか。
 65歳になるのに何を言うか、と叱られるかもしれませんが、私たちの平均余命はあと30年もあるのですから、その気になればもう一度大学に入ることもできますし、心身ともに鍛え直す時間もあるのです。

 言いたいのは、決してうらぶれてはいけないということです。
 うらぶれるとは、落ちぶれて惨めなありさま、あるいは、不幸な目に遭ったりしてみすぼらしくなり、心が萎(しお)れて侘(わび)しく思ったり、悲しみに沈み込むことを言います。
 もちろん、定年になって何もしない人が全員うらぶれると言うのではありませんが、定年を境に、人生の終末期に向かうという気持ちになってはいけないと、私は考えるのです。

 年金を受け取りながら、その収支の範囲で自らの人生の終末に向かう。そのような人生は楽しいものでしょうか。誤解を恐れずに言えば、それは萎れて行くことであり、終わりを考えること自体が侘しくなる話ではないでしょうか。
 ですから、そのようなことは、自らがうらぶれていく道を選ぶということと同じではないかと、私は思うのです。
 いや、それは其々の人生であるから、お前の考え方を押し付けることは乱暴だ、というご意見もあるでしょうし、それは百も承知です。しかし、いくら余計なお世話と言われても、私はうらぶれて欲しくないのです。

 人間はうらぶれるために生まれてくる人は一人もいない筈です。もっと良くなろう、幸せになろうと、前向きに生きるのが人間です。ですから、一瞬でも、その努力を怠ることが、私はもったいないと思うのです。
 もちろん、綺麗に終わるための準備も必要と仰る方もいるでしょう。それはそれでごもっともですが、私はもったいないと思うのです。

 如何でしょうか。いささか乱暴ですが、うらぶれないようにしましょうよ。そして、もしも私が、皆さんから見てうらぶれているようでしたら、「こら、うらぶれているぞ」と、大きな声で叱ってください。
 その時は、お礼に一席設けますので、一杯やりましょうね。そんな風にお付き合いできる人たちと、いつまでもいつまでも、うらぶれないでいたいと思うのです。シャキ!