【Vol.276】予定調和

 最近、“妙に”と言いますか“素直に”と言いますか、ピタリと腑に落ちる言葉を聞きました。それが「予定調和」です。

 さて、皆さんもご心配かと思いますが、我が国の絶不調、一体、どうしてこうなってしまったのでしょうか。政治も経済も、これ以上ないというくらいの絶不調、その原因を探究する気もないくらい、私たちは落ち込んでいます。会合やセミナーで経営者とお話しすると、誰もが「うちの社員は真面目で頑張っているし、技術もある。だけど、ビジネスで負けてしまう」と言うばかりです。

 このように、原因不明の漠然とした不安感でいっぱいの私でしたが、この言葉を聞いた途端に、まさに胸のつかえがスウッと吹っ飛んでしまったのです。

 この予定調和、仰ったのは大企業の部長さんで、何気ないメールのやり取りの中で、彼が使った言葉でした。「多喜さん、これまで、この国はずうっと予定調和でやって来た訳ですから、そう思うとよく見えますよね…」と書かれたのでした。

 その通りです。予定調和とは、誰にでも予定・予見できる事柄を何となく決めておき、調和という誰にでも受け入れられる、ある意味での「未決の既成事実」の積み上げです。そして、私たちの社会は何となく、それらの合意で成り立ってきたとも言えましょう。誰も決めないが、国民の総意の基で決めたかのように見せる。そのようにして誰の責任も問わないという合意形成方式が、円滑で合理的な我が国のビジネスモデルだったのです。

 そしていつしか、それをほとんどの国民が無意識に受け入れるようになり、自らの意志で大事なことを決めるチカラも弱くなってしまったのかもしれません。

 例えば、戦争に負けて受け入れた憲法でも、何となく護っていれば平和に暮らせるし、領土問題も、そのうち相手が譲歩してくれて何とかなるのではないかという、根拠のない楽観主義。このように、将来は何もかも和合しているという考え方、それが予定調和だったのです。

 しかし、予定調和で成り立つ世の中に慣れてしまった私たちは、今、その逆の現象に戸惑うばかりです。それは「想定外」という言葉に象徴されています。調和して上手く行っている予定だったのにそうではないのですから、予定外。それに加えて、想像もしなかったという事を併せた想定外という言葉には、些かの反省も緊張感もありません。そして、これが一番の問題ですが、合意形成の過程で決めておくべき指揮・責任の所在も不明ですから、緊急時の指揮権が誰にあるのか、それも分からないのです。目の前の事象に慌てふためくだけで、最後に決める人がよく分からないという我が国の不幸は、予定調和の狎(な)れの果てと言ってもよいでしょう。

 そうと分かれば、これからは予定調和の逆を致しましょう。前もって落としどころを考えるようなことはしないで、突発対応即断即決で行きましょう。

 そして、少々の軋轢があろうとも、全体調整利益より主体最適利益を考えることに致しましょう。多分、このように申し上げますと、それでは弱者は切り捨てられて、強者だけに良いことがあるのではないかと心配される方も居られるでしょうが、ここで、私たち日本人には、しっかりとした倫理的な規範と価値観があることを自負しなければいけません。

 思い出しましょう。東日本大震災の救援に来てくれた外国人部隊に対して「何もかも失い、このご恩に報いるためのお返しが出来ません」と言った日本人は、諸外国の人たちに感動を与え、絶賛されたではありませんか。被災者が救援者を気遣う日本人の心情に、多くの外国人が畏敬の念さえ持ったのです。

 私たちは、もう間違うことはありません。決して、他国を侵略するような過ちは起こしませんし、もしも心配をされたなら、そのようなことはしないと宣言すればいいのです。さあ、私たちは堂々と自分のことは自分で決めて、その上でしっかりと自らの責任を果たしましょう。今こそ、まさに、自助自立の時ではないかと思うのです。

 皆さん、如何でしょうか、もう、予定調和はやめにしましょうよ。