【Vol.222】「距離」という付加価値

 隠岐の島に行くようになって2年になります。いつもは飛行機なんですが、どうしても空路での都合が付かず、船で、しかも高速船ではなく(冬は海が荒れるので)フェーリーで行くことになりました。

 約4時間の船旅、たまった原稿でも書いてしまおうと、高を括ったのが大間違い。冬の日本海を甘く見てはいけません。港を出て、PCに向き合った途端に吐き気。船酔いなんてもんじゃありません、何もできない状態になりました。飲んでないのに、それも強烈な二日酔い状態になってしまったのでした。
 もう、ジッとしているしかない。そう決めて真っ暗な海を見ていると、やっと二日酔い状態もよくなって、遠くに明かりが見えてきました。目的地の港に着く前に三箇所、島の港に寄りながらの、その港の灯りです。

 さてさて、暮れの26日、クリスマスを本土で過ごした帰省客が、夫々の港で船から降りる光景をデッキから見る、そんな、滅多に無い経験をすることになったのです。
 一見して、学生さんか社会人か、不思議なもので分かるんです。多分、お土産の量でしょうか。大きな荷物を持つのは社会人、身近な手荷物しか持たないのが学生さん。そんな感じでした。
 そして、同じなのは、多分、家族なのでしょうが、出迎えの人たちとの笑顔と笑顔。皆が、本当に嬉しそうな再会シーンです。

 先ほどまでの体調不良、デッキからそれを見ていると、何かスーッと、キレイさっぱり失せてしまったのが不思議です。そして、本土から直線距離で約80キロ、フェーリーで4時間、旅には慣れている私でも遠く感じる、そんな、この距離というものに、何か特別なものを感じました。
 それは、人々の嬉しそうな笑顔を見ながら、この、距離というものに、ある種の付加価値があるのではないかと考えたのです。 

 距離の付加価値、変な言い方かも知れませんが、逆に、隠岐の島がごく近くにあったらどうでしょうか。帰省するのも、すぐに帰ることができる、例えば、車で30分だとしたらどうでしょう。
 それは帰省とは言わない、と言われるかも知れませんが、要は、遠く離れているから帰省になり、その前提は、たまにしか帰れないという、距離的な要因であることに間違いはありません。
 ですから、この、たまに帰ることによる嬉しさ、それが結果的に距離によるものだと考えれば、距離が付加価値を生み出している、と言えるのではないかと思うのです。
 何を、ゴチャゴチャ屁理屈を、と仰る向きもあるかもしれません。しかし、再会を喜ぶ人たちの、あの素晴らしい笑顔を見れば、普通の笑顔とは全然違う、そこに、特別なものを感じるのは私だけではないでしょう。

 元々、隠岐の島に通うようになった理由、それは、分かり易い表現で言えば、離島の振興策を考えるということでした。
そしてそこには、離島は不便であり、何もかも衰退して行くという、そのような前提がありました。しかし、今考えると、その前提の前提は、遠く離れているという距離に問題がある、そう思い込んでいただけの事かも知れません。
 港で見た素晴らしい笑顔のもとが、この距離にあるとするならば、離島振興策を考える時に、少なくとも、遠いからとか、不便であるとか、それは関係の無いことです。
 距離に、実は付加価値がある。私は、今、そう考えるようになりました。

 えっ、私の距離の価値? 決まっているじゃありませんか。家族といつも遠く離れていること、だから平和なんですよ。(う~ん、ちょっと違うかも…)