【Vol.188】何事も経験

 仕事がら、飛行機に乗る機会は多いのですが、先日のような経験は初めてです。羽田発福岡行き、乗ったのはいいのですが、搭乗したのに駐機場から飛行機が動かないのです。まるで台風のような強い風が長引き、約2時間、私たちは飛ばない飛行機の中に、閉じ込められた状態になってしまいました。そんな、めったに無いコトに遭遇したのです。

 タラップが外され、シーベルトもしっかり締めて、さあ出発。その飛行機がピクリとも動かないのです。そんな異常な状態の中で最も異常だった出来事は(変な表現ですが)、携帯電話の機中使用を機長が許可したことです。閉じ込められてから1時間も経ったころでしょうか、機長から、機内での携帯電話で通話の許可が出たのです。あれほど、機内での携帯電話の使用を厳しく制限している飛行機で、それが許されたのです。
 旅程の大幅な変更、連絡したいのは私だけではありません。博多での講演はどうあっても間に合わない、それを連絡しようにも、その手段は携帯電話しかないのに、使えない。いっそのこと、飛ばないなら降ろしてくれと思いましたし、そう申し出た乗客も何人かいたようです。そんな重い空気が充満し、イライラがピークになろうとするそのときに、許可が出たのです。
 「機長の許可が出ました。携帯電話をお使いください。但し、計器に異常が生じたときは中止します」。客室乗務員のアナウンスに、なんとも言えない苦笑まじりのざわめきが起こり、続けてそれを押さえ込むように、「身近で携帯電話の使用が障害となる方」、「周りの方にご迷惑にならないように」と、まるで新幹線のようなアナウンスがあり、「では今からどうぞ」、それこそ、堰を切ったようでした。一斉に乗客(の三分の一くらい)が携帯電話で話し始めたのです。静まり返っていた機内が、突然、携帯電話の声が飛び交う。なんと表現したらいいのでしょう、騒音というか、振動というか、うなりのような話し声が充満したのです。
 「機内から掛けているのだが…」、聞くともなしに聞こえてしまうのですが、殆ど同じマクラ言葉が滑稽です。中には、失礼ながら明らかにどうでもいい話、伝える必要はないと思われる話も、「今、飛行機の中から…」と、皆、嬉しそうに話しているのです。そう言う私も同じで、機内で堂々と携帯電話を使うことなど、もうこれっきりと思いましたから、数回掛けてしまいました。出発の5分前まで、そんな状態が続いたのです。
 「大変ご迷惑をお掛けしましたが、この飛行機は出発します」。動き出して、なぜか私は妙な嬉しさが込み上げてきました。出発する嬉しさではありません(もう、行っても用事は無いのですから)。最初で最後の経験かと思われる、その異常な出来事に出くわした、一種、快感にも似た嬉しさを感じたのです。女性の客室乗務員が差し出すバスケットのアメを取りながら、「アメとムチだね。ははは」、下手なシャレは全然受けませんでしたが、私の気持ちは落ち込むどころか嬉しいのです。

 皆さん、こんなことが嬉しいと言う私、変だと思うでしょう。でもね、何事も経験なんですよ。めったに無いこと、そこに何かの発見があるのです。それが、私の財産なのだと改めて思いました。楽しい旅でした。