【Vol.113】前例が無いという競争力

 ある方が憤慨していました。「前例が無い」と言われてダメになったそうです。なんでも、新しい仕事のやり方を考えて提案したところ、それが却下の理由だったそうです。「新しいやり方なのだから、前例が無いのは当り前でしょう」と食い下がったそうですが、「前例が無いからリスクが大きい」とそのままだったそうです。怒りが収まらないどころか、言うほどにボルテージは上がるばかりです。

 よくある事ではありますが、一体、いつの頃からこの国では「前例重視主義」が始まったのでしょうか。前例とは、おそらく、上手く行っている、或いは行っていただろう(かもしれない)、過去の方法や手法のことで、それは、逆に言えば、いつまでも上手く行っていなければ、消えてしまった運命のものだろうと思います。禅問答ではありませんが、前例と言われる方法や手法は、きっと、それ以前の方法や手法が行き詰まったので新しくなったのであって、その前例に縛り付けられるのは、それ自身、前例が無いのではないでしょうか。(ああ、ややこしい)
 なのに、前例にこだわるのは、何故、いつの頃からか、それが不思議です。

 推測するに、大量生産方式が定着して、自動化・省力化の技術が安定的に稼動したときから、前例重視主義が始まったのではないかと思われます。おそらく昭和の40年代でしょうか、「高度経済成長期」の始まりにあわせて「前例」の歴史もスタートしたのでしょう。高度成長を支える大量生産方式、そのシステムが何かの理由で停止したら、その時点で生産が止まってしまうのですから大変です。ですから、上手く稼動しているシステムに手を入れるのは、それだけでリスクを伴う行為です。それは理解できますが、現代ではどうでしょうか。
 いつも申し上げるように、もう、我が国では大量生産方式で利益を出せるような商品は少なくなりました。中国を始めとする新興工業国がそのコスト競争力を引っさげて、世界の工場としてのイニシアティブを握ってしまった現実を、誰が否定できると言うのでしょうか。過去の前例を重視することで、安定的にしかも効率よく生産していたシステムの残像を、一体、いつまで後生大事に持ち続けているのでしょうか。

 要するに、もう我が国では、それまで利益をもたらしてくれた「前例」自身が、消え行く運命であることは明白です。更に言えば、前例重視の姿勢自体が、大きなリスクになっていることを、私達は認識すべきなのです。

 それならば、何かを意図するとき、前例があったら、逆に、やらない方が確実です。
 皆さん、如何でしょうか。実は、前例が無いということが競争力になっているのですよ。