【Vol.60】山を征服する

 最近、はっと思うことがありました。ある宗教家のお話です。
 私が「今の企業が、不要な競争をして、その挙句が中国企業にコストで負け、国内では空洞化が進んでいる…」というような話をしたときです。「それは企業のトップが日本人の心を忘れたからです」と言われたのです。「心…ですか」理解できない私に親切に解説してくださいました。

 外国、特に欧米人の考え方を象徴する事柄の一つに、山を「征服する」と言うのがある。しかし、日本人を初めとして多くのアジア人は、山を征服するなどという考えは全く無く、むしろ「登らせていただく」と言うくらい、山を神聖化して崇めている。
 その思想の根源は、万物の創生は自然にできたものであると信じているからだ。古事記には天地開闢(てんちかいびゃく)以前は神の存在すらなかったと書いてある。後から生まれた神は山を始め、自然界に住むようになった。
 それに対して、欧米では万物を神が創造したという。ここが、根本的に違う理念・思想である。神が創造した山に神が住むことは無い。山は神の創造物であり、そこに神は住まない。創造物として同列の人間から見れば、当然、神の住まない山は神聖ではなく、征服する対象にあるのだ。

 こう言われて、私は目の前の曇りが晴れたように感じました。仏の教えを伝えるその宗教家は、今の日本企業の実態を、経済新聞などを通じて分析しているとは思えません。宗教観を通じて、素早く現状を看破されたのです。勿論、私は欧米の宗教観に文句を言っているのではありません。この、「自然界…」の部分が理解できるように思えたのです。つまり、初めからある、ある種の「秩序」に従うことの価値観です。
 そう考えると、一体、日本においてはいつの頃から山を征服する事が尊いことになったのでしょうか。高い山があれば登る。誰よりも先に登る。その結果、環境が汚れ、誰が迷惑しようとも、征服する達成感が優先される。そんな、自分勝手な価値観を、何時、誰が持ち込んだのでしょうか。

 山に入る時には身を清め、自然を大切にしながら山の富を分かち合い、江戸時代のようなゼロ成長でも平和に暮らせたこの国の価値観が、押しのけてでも何でも一番になるほうが偉い、と思うようになったのはいつの頃からでしょうか。競争して何が何でも頂点に立つことが企業の目的と思うようになったのはどうしてでしょうか。 
 その結果が、経営の環境変化について行けない企業の苦しみに通じている。と、思ったりしたのですが…。