【Vol.59】師の存在

 変な言い方ですが、世の中にはどうしようもない存在があると思うのです。 ここで言う「どうしようもない」の意味は、こちらから否定してもどうしようもないことで、例えば親の存在です。自分を生んでくれた人ですから、こちらからその存在を無視しようとしてもどうなるものではありません。兄弟、親戚、ある意味では空気のように自然に付き合える親友などもそういう存在なのかも知れません。そのような人の前に出ると、自然に素直なありのままの気持ちになる事が出来ます。考えてみれば、利害関係など無いからで、気取ってもしようがないからでしょう。逆に言えば、何もかもお互いにお見通し、完全に身を委ねても良い相手です。
 皆さんもそうであるように、私も、そのような存在を否定したい、或いは関係を解消したいと思っている訳ではなく、むしろ肯定的に受け入れている一人です。

 ところで先日、そのような存在の一つに「師弟」の関係もあると感じる機会がありました。その師は野田一夫先生です。先生は多摩大学の初代学長を務めた後、宮城大学の創設にも携わられ、これまた初代学長でした。宮城大学の学長のときにご縁があり、大学の特別講師として招かれ、そのお人柄、大きさに、こちらのほうからお願いして「押しかけ終生末席弟子」を名乗ることを許された(一方的に決めている)、尊敬する私の師です。
 このたび退官されて東京に戻られ、「多喜君、久々に帰ったのだ。君の顔を見たいがどうだ」、とお誘いがありました。そのときのことです。駆けつけた席には、先生が仙台時代にお付き合いのあった会社の社長が居られ、知的財産権について相談に乗って欲しいということです。どうやら、このほうが主たる目的のようです。

 色々ご相談を受け、まあ、少しはお役に立てたのですが、それにしても不思議なのは、大学の講師として務めた時、先生には知財の知の字も話をしたことがない筈なのに、先生が私の仕事を詳しく知っておられたことでした。
 「先生、どうして知財のことを知っておられたのですか」と訊く私に、「そんな事、当り前じゃないか」と笑っておられます。続けて、「君の事は何でも知っているんだ。だから今日はこうして声を掛けたんじゃないか。今のところ、知財のことは君に訊くのが一番だと思ったんだ」。一番かどうかは別にして、むしろ当の社長は、先生と私の会話のほうが知財の相談事よりも面白そうな感じです。興に任せ、お酒が入りすぎるくらい入ってしまった夜でした。
 お酒がまわり、ウトウトする先生のお顔を見ながら、「先生は何でもお見通しなんだ」。そう気付くと、ふっと力が抜けて、「これで本当の弟子に入れてもらえたかもしれない」と嬉しくなりました。先生が私の全てを見通し、私にとって自然に素直になれる相手、つまり、身を委ね、甘えてもいいのだぞという「どうしようもない」存在になっていただけたと実感できたのです。
 仕事を通じたご縁。そして、そのご縁が師弟という関係になる。
 ああ、私はなんというシアワセモノでしょうか。