【vol.287】善悪正邪で決める

最近、気に掛けている言葉があります。それは 「善悪正邪」です。こうして文字にすると、何とも深いと言いましょうか、重いとも感じられますが、この言葉、私の心の羅針盤になってしまいました。

 元々、この言葉に出会ったのは、地方にお住いの教育者であり哲学者(学者ではなく哲学を実践している人)の川田先生から教えられたからです。曰く、「哲学とは、人生を善悪正邪で判断すること」と、ズバリと言われたのでした。

 ここに至る経緯をもう少し解説した方がよいかもしれません。そもそもは、ソクラテスの読書会でした。ソクラテスを読むなんて、お前には似合わないと仰るでしょうが、そうなんです、真面目にソクラテスの本を読み、哲学とは何か、そんな勉強会に参加したのです。そして、その講師が川田殖先生だったのです。先生は元日本聾話学校長を務められた教育者で、もう80歳を過ぎて居られますが、とにかくお元気で、このような読書会で教えてくださっているのです。まさに、先生は学問としてではなく、ご自分の人生において哲学を学び実践されているのです。その読書会で、先生は私達に「哲学とは何か?」と問い掛けたのでした。

 如何でしょう、皆さんはこの問いに直ぐに答えられるでしょうか。多分、サッと答えられる方は少ないと思うのですが、私などは、答え、と言うよりその問い掛けの意味を理解することさえ、直ぐには出来ませんでした。

 先生は、そこに居る人達(10名くらい)の顔を、何やら楽しそうに見て居られましたが、私と同様に、直ぐに答えられる人はおりません。先生はそれを見越したように、善悪正邪、と言われたのでした。

 それを聴いた一同、このようなズバリの答えがあるとは思っていませんから、ビックリしたというか、驚いたというのが正直なところでした。

 ソクラテスの読書会ですから、難解な言葉が飛び交う中で、善悪正邪と言う、超簡潔な言葉。それこそ、直球ど真ん中をバックスクリーンに一直線で打ち返したかのような印象でした。私には、深い意味は後回しで、とにかく、こんなに解り易い答えが有るのだと、それこそ、鳥肌が立つような一瞬でした。

> その日、私はこの言葉だけで頭が一杯になり、他に学んだことは何も覚えていないのですが、この日から、私の中で「善悪正邪」が中心になってしまったのです。

 それから事ある毎に、私は念仏を唱えるように心の中で善悪正邪とつぶやくようになりました。今やろうとしている事は善いのか悪いのか、正しいかねじ曲がってはいないか、それを考えるようになったのです。

 それまで私は、例えば、開発の是非を論じるときなど、経済的な利益があるかとか、技術的な優位性があるかなど、要するに経営に資するかどうかが判断基準だったのですが、それだけでよかったのでしょうか。自社の利益の為に社会や周囲に及ぼす影響などは、正直、後回しになったこともありました。それが、それまで聞いたことも無かった善悪正邪を聞いた途端、全てのことをこれで決めれば、それでよいのではないかと思うようになったのです。

 そして実は、このように考えるようになってから、間違いが少なくなったように思います。どれだけの利益があるのか、或いは効率はどのくらいかを考えるより、この善悪正邪という指針で決めた方が、スッキリと定まるようになりました。仮に経済的なメリットが無くても、きっと善くて正しい事ならば後から利益が付いてくる、そのように考えるようになったのです。

 如何でしょうか、善悪正邪。どこまでやれるか分かりませんが、私はこの言葉に出会ってから、気持ちが楽になりました。だってそうでしょう、誰だって、善くて正しい事がイイに決まっているからですよ。