【Vol.141】『時ごろ感』考

 以前、「値ごろ感」について書いたことがありますが、どうも、時間や期間にも頃合(ころあい)があるように思うのです。それを、「時ごろ感(じごろかん)」と呼ぶには少なからず無理がありますが、今回はそのお話です。

 「桃栗三年柿八年」と言います。芽生えの時から、桃と栗は三年、柿は八年すれば実を結ぶという意味です。子供の時に教えられたこの数字は、この歳までも覚えていて、植物が実をつける頃合いを計るのに、多いに役立っています。「石の上にも三年」というのもあって、(石の上でも三年続けて座っていれば温まるとの意から)辛抱すれば必ず成功することの例えです。
また、有名(?)な話に、尺八の稽古でいう「顎(あご)振り三年」があります。首振りとも言いますが、尺八がまともに吹けるようになるのに、少なくとも三年はかかるほど稽古が大変だということです。要するに、お稽古事でも仕事でも、何かに挑戦する時に、一体、どのくらいの時間や期間が最低限必要であるかを、私たちの先達はその経験から大体の目安を決めてくれたのです。これらの目安は予め知っていると便利です。計画的に取り組む事が出来るからです。逆に、尺八が顎振り百年と言われたら、誰も挑戦しないでしょうネ。

 このように、○○にも○年、○○は○年、○年すれば…などと、時間や期間には頃合いがあり、それは、昔からの言い伝えや教訓でもあります。そして、私たちはこのような時間の頃合いをはじめに知って、その上でどうするかを決めているようです。また、時ごろ感は誰かが勝手にでっち上げたのではなく、ある意味で普遍的な時間や期間の目安であることも特徴です。

 最近、私たちの仕事についての時ごろ感を考えることがありました。まとまった仕事を成就させる為には、一体、どのくらいの時間が目安になるのかと、ある方との話題になったからです。「そりゃあ、早いほうが良いでしょうね」。共にそう思いましたが、ふっと考えました。果たして本当に早くなるのかと。よく考えると大学だって四年、さっきの石の上の修行も尺八もせいぜい三年。柿だって(?)八年です。つまり、何十年もかかるものは、ほとんどないのだから、そんなに急いて事を進める必要もないし、成る時は自然になることに気が付きました。

 そうなんです、何かに挑戦したり何かを成し遂げようとする時、私たちはいつも「一体どのくらいの時間がかかるのか」と気になりますし、出来るようになるまでの時間が持てない、あるいは待てないと諦めてしまいます。しかし、時ごろ感的に見ると、そんなに時間はかからないのです。
 だったら、何でもやってみましょうよ。海に千年、山に千年住んだ蛇は竜になるそうですからね。えっ、それは海千山千の例えだから違うって? ははは。
 じゃあ、ジゴロになるには何年かかるかって? …もうよしましょう。