【Vol.127】気っ風の本質

 約二十年前に東京に事務所を移転し、住まいも都内に引っ越して、もう十年です。
 以前は同じ「東京」という言葉を使うとき、「トウキョウ」という言葉の語感と言いましょうか、響きみたいなものに、少しばかりの憧れを抱いていたものです。馴染んできたのでしょう、今はそのような気持ちはありませんが、東京の、別の「表情」と言うのでしょうか、「気分」といった方が良いのでしょうか、とにかく、そんなものが分かって来たような気がします。
 別に、私が都会人になった訳ではありませんし、そんな話ではありません。今回は、その東京の表情や気分について考えてみました。もしかしたら、それは東京だけではない、かつての日本にあった普遍的な表情や気分みたいなものかも知れません。
 私の憧れは、そこにあるような気がしたからです。

 なぜ、そんなことを言い出したかというと、三代目になるという「江戸っ子」経営者とご一緒する機会があったからです。地方では珍しくはありませんが、東京で三代目というのは希少価値(失礼!)です。戦後に住み着いた人が殆どの東京では、戦前から住んでいること自体が、それだけで奇跡的なことです。その方の、言葉遣いが先ず違うのです。江戸弁は方言である、と聞いたことはありますが、その通り。標準語より乱暴で、テンポが速いのです。
 お酒も入って、こちらのテンポも速くなり(お酒も)、やり取りするうちに気付いたことがありました。ある事業の話になって、彼がその事業に参加する時の裏話です。何故、参加する気になったかと訊いた私に、「そりゃあ、社会的に意味があるからさ」。事も無げに仰ったのです。こう書くと、ちょっとキザにきこえますが、そんなタイプの方ではありません。多分、本当にそう思われたのだろうと、私は素直に納得しました。そう、初対面なのに納得できたのです。何かしら爽やかな気になったような、ある種の感動でした。
 お別れして店を出て、ふっと考えました。「何故、そう思ったのだろう」。私が彼の話に、何ゆえ納得して、しかも感動したのかを考えてみたのです。そんなこと、どうでもいいことではないかと思われるかも知れませんが、何かのチカラみたいなものを感じたからです。

 で、色々考えたのですが、結論は「気っ風(きっぷ)」です。時代劇に出てくる長屋の大工さんが「てやんで~」なんて、威勢のいい啖呵(たんか)はTVなどで知っていますが、そうではない、威勢ではない、やはり気っ風ではないかと思ったのです。穏やかなに感じるのですが、彼の言葉には気っ風がいっぱいでした。キッパリとした態度には彼の心意気が濃密に込められていましたし、進取の気性と清浄な気概が感じられたです。
 多分、彼はいつもそうなんでしょう。何を考えるにも、彼は、自身の気っ風で判断しているのだと思います。身体(頭脳)に染み込んだ気っ風で考え、意思決定をしているのです。そう思うと本能的なものかも知れませんが、今ではそんな本能を備えている人はめったにいません。そこで、あえて気っ風を定義してみました。

 気っ風とは、社会的な正義や貢献の為に、自らの利益を二の次にしてまでも、キッパリと気概をもって困難に立ち向かう、日本人なら誰でも備えていた真面目な心根(こころね)とまごころ。
 …如何でしょうか。

 えっ、私の気っ風ですか。私は、これからです。これからそうなりたいのです!