【vol.284】人生は友釣り

 落ちアユの季節も終わりそう、すっかり涼しくなりました。中学生のころ、友人の家が大井川の上流にある旅館で、アユの季節になると泊りがけで友釣りに出掛けたのを想い出します。

 私は上手ではなかったけれど、大自然の中でアユと向き合うのは、相当の技術が必要です。友釣りという技法を、一体、誰が考えたのでしょうか、生きたアユを囮(おとり)に仕立て、元々そこにいるアユの縄張りに侵入させて、排除しようと攻撃に来るアユを、おとりアユに仕掛けた鉤(はり)に引っ掛けるという高度な漁法(掛け釣り方法)は、まさに大発明です。そしてこの言い方、「友」どころではなく、実際には「敵」なのに、友釣りと呼ぶのは何とも言えない風情と言いましょうか、風流さえ感じます。

 この友釣りの話、いつもの寿司屋でひとしきり、常連客の間で盛り上がりました。若いころに夢中になったと言う人、今でもクルマを飛ばして地方の川に出掛ける人、其々の体験談はまさに肴(さかな)、どんなツマミも握りもかないません。

 そうした中で、微笑みながら握るその寿司屋の親父がおもむろに、「友釣りは人生よ」と、ボソッと言ったのです。そこに居た一同が一瞬、「ん?」と一斉に親父の顔を見て、「そうだよなあ…」と頷きました。私も、頷きました。

 親父の店に、私は28年間通っています。事務所を番町に移した時から、一番近いこの寿司屋が、私のナジミです。一人で行く時もありますが、家族や友人、そしてお客さんと参ります。気のおけない雰囲気と、何より、私は開店以来の最古参ですから、何でもアリの御免蒙りでムリを利いてくれるのです。

 そんな私ですが、今回は親父の話に感動しました。「友釣りは人生」、聞いたその場の雰囲気が、すう~っと、シミジミと言いましょうかホンノリと言いましょうか、ある種の和み(なごみ)モードになりました。いつも仕事の愚痴ばかりを言う常連客も、初めての客も、皆、ニコニコしながら穏やかに話を聞いています。

 親父が言った「友釣りは人生」という意味は、親父にとって友釣りこそが一番大事な趣味であり、それこそ人生をかけてもよいと考えての事ですが、私は、人生とは友釣りのようなもの、そう思ったのです。友に助けられ、友と語らい、あるいは争い、まさに人生とは、友との関係で成り立っていると考えるからです。

 人間関係というのを見ていると、更生したり、悪事に引っ張られたり、よくも悪くも、友のチカラが強く働きます。新聞記事で、「同級生に誘われて仕方なくやった」などという事件を見るにつけ、悪い友達に付き合う不運を感じます。

 最近、高校時代の同窓会が、以前に増して頻繁に開かれるようになりました。高校生の時にはあまり話さなかった同級生と急に親しくなったり、同級生とは思わなかった、いや知らなかった人なのに、何十年も親友であるかのように話せるのは、まさに歳のせいかもしれませんが、これも、同窓会という場に、友釣り状態で同級生が集まっているからではないでしょうか。

 また、私の仕事のことで言いますと、クライアント同士の関係は「友達のともだちは皆トモダチ」状態ですから、まさに友釣りをして来たと言えましょう。良い友(クライアント)に、別の良い友が誘われ、その輪が拡がって行くのです。そして、それは仕事ばかりではありません。私こそが、友達に助けられ、友達と語り、友達と生きているのです。

 秋の夜長、アユの季節は終わりますが、人生は友釣りと言うテーマで語らうのは如何でしょうか。