【Vol.238】柿の木

 記録ずくめの猛暑のあおりで、今年のお米は絶不調だったそうです。でも、稲刈りが終わって、寒そうに切り株が残った田んぼの風景は、やはり日本の原風景、なにかホッとするような気がします。日に日に深まる秋の気配、茜色に染まった夕陽がことさら鮮やかに見えるのは、さあ、これからが冬本番、そのシグナルかもしれません。先日も、地方に出掛けて目にした里山の景色は、ほどよくセピア色に染まって、まるで劇場の舞台照明のようでした。毎年々々、繰り返し見られる風景なのに、これまた毎年、同じように感じるのは、歳を取って去年のことを忘れてしまったのか、それともやはり、その原風景が綺麗だからでしょうか。

 そんな秋の風景の中に、いつ頃からでしょうか、ちょっと気になっていることがあるのです。それは、柿の木。そう、黄色に実るあのカキなのです。何が気になるかと言うと、その柿の実がいつまでも枝に生(な)ったまま、誰も採らず、鳥や動物にも食べられずに腐って落ちるまで、ずっと、そのまま放置されていることです。
 そんなこと、当たり前ではないか、そう仰る方が居られるかもしれませんが、私の母の田舎では、たわわに実る柿の実を丁度いい頃合には摘み取って、渋を抜いて食べたり、或は、干し柿にしていたのを覚えています。どこの家の軒先にも干し柿がつるされていて、まるで、夏で言えば軒先のすだれのような風情でした。その風景が今、殆ど見られなくなったことに気付いたのです。

 柿の木だけではありません。その周辺をよく見ると、稲刈りが終わった田んぼの周辺には雑木が生い茂り、下草と言うより、外来種と思われる背の高い雑草が、秋の気配どころか、真夏の盛りのような勢いでパワーを見せつけるかのように花を付けています。
 一体、いつから、そしてどうして、このようになってしまったのでしょうか。

 多分、その答えは少子高齢化。
里山の手入れだって、干し柿だって、誰がやるのか、人がいないのだから出来る訳は無いだろう、そう言われるのに決まっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。本当に、高齢化しているから人手が無い、それだけの理由なのでしょうか。もしも、本当にそれだけの理由なら、この国は、何でもかんでも朽ち果て荒れ果てて行く事になってしまいます。

 枝にぶら下がったままの柿を見ながら、少子高齢化の将来を憂いたところで何の解決にもなりません。今では誰も採らない柿ですが、もしも、採って食べるようになったなら、ひょっとして里山も綺麗になり、日本の原風景に戻るのではないかと思うのです。さあ皆さん、昔のように柿の実を採って食べるようにしませんか。それも、里山を護ることを目的として柿を採り、食べるのです。

 スーパーやコンビニに行けば、それこそ何でもかんでも買える時代ですが、自然に生っているものを採って食べること、それが自然を護ることに繋がることを、今のこどもたちは知りません。工場でつくった干し柿のように美味しくはない(いや、自然の方が美味しいのですが、子供は食べたことが無いので分かりません。ああ、悲しいことです)かもしれませんが、自然を護る、或は環境に良いことだと分かったら、子供たちは柿の木やその周辺に興味を持つのではないでしょうか。

 如何でしょうか、いささかでもお役に立てるのなら、やりますよ私。柿採りの先頭になって働きたいと思います。
 そして、その時は、私のことを“柿の木おじさん”って呼んでくださいな。えっ、略して“柿ジイ”ですって? 失礼な!