【Vol.225】消去する側される側

 最近、検索大手のサービスに注目が集まっています。全地球の地理情報(地図)を、はるか地上から、あたかも宇宙ステーションから見下ろすように拡大して見ることの出来るサービスや、町並みをくまなく撮影し、その位置情報を重ね合わせることにより、居ながらにして、見たい風景を見たい角度から見ることの出来るサービスなど、圧倒的な情報量で数々の検索サービスを提供し続けています。
 
 さて、このような事業者、これから更に熾烈な競争が拡大して、新しい情報端末(携帯電話や電子書籍パッドなど)が次々に開発され、簡単便利に使えるようになると、益々、準備(ユーザーの要求を待ち受けて供給される情報)されているコンテンツの数で、事業者の優位性に差が出る大きな要因になっているのが分かります。

 
 しかし、ここで問題、というか気になるのは、その準備された情報は、あくまで、その企業によって作成・編集されたものであり、国や自治体、或いは公的機関による、いわゆる公式なものではないということです。
 いやいや、そもそも情報に公や民などの区別がある訳はない、そう仰るかもしれませんが、私の言いたいことは、あくまで、その事業者の意図によって情報が供給されているということで、閲覧する私達の意図に、全く関係のないという事実です。
 
 つまり、供給される情報は、事業者が勝手(事業者の費用でという意味)に作り上げてデータベース化しているものであり、閲覧する方も、これまた勝手(タダで見ることが出来るという意味)に見るのすから、双方、勝手なんですが、消去する場合は、提供側だけが出来る、そのことが、気になるのです。

 
 仮に、公的機関ならば、一旦掲載した情報を勝手に消去するとしたら、それ自体は出来ないわけではありませんが、公的な目的や立場があって載せたのですから、そう簡単には消去出来ないのですが、これが一方的に出来るという、いわば特権をもっている、そこが気になるのです。
 
 最近、これも大手の検索サイトから、公序良俗に反するような画像が一斉に消去されたという話を聞いて、それはいいことだと思ったのですが、改めて感じたことは、提供側がいつでもどれでも、誰に相談することもなく、情報を一方的に消去することが出来るという、ある意味、生殺与奪という立場にあるということでした。
 
 生殺与奪なんて大袈裟な、といわれるかも知れませんが、消去される側になった場合を考えたとき、それは、正に死活問題なのです。これだけ、何をするにも、先ずは検索してから始まる時代に、その事業や商品情報の検索結果が上位にあるか否かで、大きくビジネスの行方が変わることを、私達はイヤというほど知っています。
 
 その情報が、いとも簡単に消去される、これを生殺与奪と言わずに何と表現したらいいのでしょうか。
大丈夫、大丈夫、ちゃんとした情報で、しっかりとやっていればそんなことにはならないと思っていても、消去するかしないか、その判断基準さえ、私達は知りませんし、あるのかどうかも分かりません。

 消去する側とされる側、誰が考えても、される側にはなりたくはありません。逆に言えば、正しい情報や嬉しい情報を、いつになっても、提供する側にいたいと思うのは私ばかりではないでしょう。
 そう考えると、益々、提供するコンテンツの重要性が高まっているのです。

 ところで、SIにはお客様に提供するコンテンツがあるのかって、冗談じゃありませんよ、SIはコンテンツの塊ですから、一杯、提供していますよ。
 提供しすぎちゃって、肩がコンテンツなんちゃって…。ははは、無視してください。