【Vol.217】タクシードライバーの身の上話

 出張先の空港に着き、約束の時間に遅れそうでしたので、タクシーに乗りました。ドライバーさんは、そう、70歳ちょっと前くらいでしょうか、およそ、30分の道のりです。
 いつものように、「ご当地の景気はどうですか?」、そんな会話をしているうちに、ドライバーさんの身の上話になりました。「うちの会社、ほとんどのドライバーは手取りが少なく苦しいんですが、おかげさんで私は年金を貰いながら、こうしてのんびりとやらせてもらい、本当にシアワセなんです」、そんな話になりました。

 何でも、若い頃には船乗りだったそうで、中学を出て海員学校に進み、卒業後すぐに船員になり、以来30年、世界中の海を回ったそうです。定年後、こうしてタクシードライバーになったそうですが、大手の海運会社だったので、定年後の年金も充実していて、余裕があるのでしょう、温厚なお顔からも伺えます。物腰も穏やかで、運転もどちらかといえばノンビリ。だから、自然に身の上話に花が咲いたという訳です。
 6人兄弟の長男、父親を早くに亡くしたので、文字通りの大黒柱、下の兄弟全員の学費を稼いで卒業させた…。穏やかに話す言葉の中に、そのご苦労と自負が伺えます。真っ白になった頭髪と後姿に、何か重みみたいなものを感じるほどです。聞くほどに、終戦後の我が国の復興を支えた人たちの、ある意味、典型かも知れません。

 話すうちに、昭和の30年代から40年代の話になりました。昔は、どの家も鶏を飼っていて、毎朝、生んだ卵が食卓に並び、その鶏が年を取って卵を産まなくなると、潰して食べたこと、それが、当時のご馳走だったことなど、話は尽きません。私とは、一回りくらい年長なのでしょうが、年の差なんて感じません、気が付くと、「同期のサクラ」で話しています。

 一番印象に残ったのは、「あの頃は、貧しかったけど、夢があり、希望もあった…」というくだりです。決して楽だった筈はありません。5人もの兄弟を一人で養い、多分、自分の娯楽や欲しいものは、全部後回しだったのでしょう。それなのに、夢と希望があったなんて、果たして、私も含めて、そういう境遇にあったとしたら、同じことが出来るのでしょうか。

 短い時間なのに、随分、話し込んだような気がします。子供の頃から若い時、そして、高度経済成長期まで、まるで終戦後から現代に至るまで、一気に、歴史を辿るような会話でした。話しながら、ああ、私もそんな年になったのだと、ある意味で、再確認したような気分になりました。
 誰でも年を取りますが、初めて会う見ず知らずの人と、共通の話で盛り上がる。それも昔を偲んでの会話です。同窓会とも似ていますが、同じ学び舎に居た者同士のそれと、ちょっとスケールが違います。
 それは、この国の昔と、同窓生の昔、その差です。
 天下国家とは言いませんが、私達はこの国の昔を懐かしみ、大袈裟に言えば、現代の問題点や課題を議論したような、そんな会話でした。

 目的地近くになって、「あとどのくらいですか?」、そう訊くと、「ああ、もう少しで着きます。もうちょっと話したいのですがねえ…」。私も、もう少し話したい。そんな気持を感じてくれたようでした。

 降りるとき、タクシー代をおまけしてくれました。何か、とても爽やかで、嬉しい気持ちになりました。
 勿論、お金のことじゃありません。一生懸命に生きてきた方の、その心意気を、ありがたいと思ったのです。