【Vol.207】数値化できない競争力

 ちょっと気付いたことがありました。何かの話の中で、「その嬉しさってどのくらい?」と聞かれたのです。嬉しさ度合いを知りたかったのでしょう、「嬉しさ何点?」と、点数で示してくれると分かり易いと言うのです。私は「凄く」嬉しかったと答えたのですが、点数は付けられないと言いました。変な人ではありません。何気なく、深い意味もなく聞きたかったのでしょう。即座に何点と答えたら、それはそれで座興としては盛り上がったかも知れませんが、このお話、案外深い意味があるようです。

 確かに、嬉しさにも色々ありますが、点数、或いは計数化しないからこそ、嬉しく感じるのです。逆に、数値化してしまったら嬉しくはないのではないかと、そんなことを思いました。想像してください。何か嬉しいことがあったとき、「はい、今の嬉しさは○○点。」などと言ってしまったら、せっかく嬉しいのに、嬉しくない部分が見えてしまい、あまり嬉しくなくなっちゃうじゃありませんか。

 嬉しさは、「凄く」とか「いっぱい」とか、「ちょっと」、「それなりに…」、そんなふうに感じるものです。数値化できない曖昧さゆえの深み或いは味わいとでも言うのでしょうか、感じる幅と受け取り方が人夫々にあると思うのです。そこには、人間としての個性が存在し、受け止め方の特徴があるのです。可笑しさや楽しさ、悲しみや苦労も数値化できません。これも、可笑しさ○○点では、満点に届かない部分が見えてしまいシラケてしまいます。
 嬉しい、可笑しい、楽しい、悲しい、辛い…、そうさせる人、癒す人。それは、ある種、人間の能力かも知れません。人の数だけ感じ方があり、対応する為に機転や機微が生まれ、人間としての個性や感性が育まれ、それが強みや能力となって行くのです。

 偏差値というのがあります。私が学校に行っていた頃は無かった数値です。学力の試験結果や成績が、その集団の平均値からどの程度ずれているかを示す数値だそうですが、平均との比較ですから、個人の個性や感性などが評価されることはありません。聞けば、最近は受験する時にはこの偏差値が重要で、志望校を決めるときには、この偏差値で決まるらしいのです。志望校が偏差値で決まるなら、志望校と言わずに合格可能校と呼べばいいのですが、本来、行きたい学校ではないところに、偏差値で決められて行くなんて、何か変な気がします。

 もう、お気付きでしょう。良いところや異なるところ、そのような人間特有の能力は、本来数値で表現できる筈はありません。しかし、私たちはいつの間にか、人を数値で評価するようになってしまい、そのことで、本当は評価し伸ばさなくてはいけない、人間こそが持つ能力を見失ってはいないでしょうか。そういえば、若くして自らの報酬額にこだわり、目標値に届いた途端に努力をしなくなった人、どこぞの格付け会社の数値だけを信じて投資し、結果、大損失を被った人、そんな人の話を聞いたことがありますが、要は、数字を頼りにしただけの話です。数字がよければ全てよし、そんな他力(数字)本願が成り立つ筈はありません。
 有史以来の大不況と言われる中、私たちはもう一度、自らの足元を見つめ直す必要があります。そしてそのとき、誰かが作った数字などに惑うことなく、自身の感性を信じ、数値化できない部分を再評価しなければいけません。それは即ち、従来の評価基準とは逆の、新しい競争力や付加価値だからです。

 ところで、その時代に偏差値があったとしたら、私はどうかって? 多分、「変さ値」ならダントツだったと思いますよ! ははは。