【Vol.186】居候がいなくなり候

 知人と話していて、なぜ最近になってフリーターやニートが増えて、昔はいなかったのかという話題になりました。
 この問題は、ここ数年(或いは10年くらい)の現象かもしれません。私の若い頃、そのような言葉(呼称)も無かったし、気付くことも考えたこともありません。でも、話しているうちに、多分、そういう人はいた筈だということになりました。決め付けるのもおかしいのですが、確かにいたのです。それは「居候(いそうろう)」と呼ばれた人達です。私は、この居候という言葉とその人達の居場所があったからこそ、今で言うフリーターやニートがいなかったと思うのです。

 「居候、三杯目にはそっと出し」という川柳があるくらい、居候は肩身の狭い思いをしていた人達です。
 他にも「居候、因果と子供嫌いなり」というのもあり、ワケありで子供嫌いも特徴?でした。昔の人はしゃれた言い方をしたものです。「因果を嫌う」とは深い表現です。自分がこうなった要因とか原因について今更クドクド言ったところで始まらないと、自身に対してさめた見方をしているのです。居候とフリーターやニートが同じであると決め付けてしまうのは短絡的かもしれません。しかし、いずれも(不本意ながら)他人の世話になり、その時点では自立できていないという共通点がある人達です。

 さて、昔は居候の居場所が相当数ありました。親戚、友人、旦那さん、たまたま出会ったお世話好き、色々ありますが、一緒に住まわせ、食事を与え、うるさいことを言わない、おおらかな人が面倒を見ていたのです。そのような人のお陰で、先の川柳のように、居候は居候なりに気を遣いながらも、ちゃんと暮らすことが出来たのです。
 そして今の時代、気になるのはこのような大家さんや世間の奥ゆかしさや懐の広さが、一体、何処へ消えてしまったのかということです。経済的な観点で当時と比べれば、おそらく昔の方が厳しく、今の方が豊かな筈です。でも、今は居候と呼べる人が殆どいないのです。
 なぜ、いなくなったのか、色々ご意見はあるでしょうが、私は言葉(呼称)や表現の問題ではないかと思うのです。
 居候…。皆さん、この呼び方、いいと思いませんか。居る者を候(そうろう)口調で呼ぶ。そんな思いやりを感じませんか。因果を背負う者に対して、自分の家に住まわせ食事も出して、その上で「居てそうろう」と呼ぶのです。家主の、あるいは世間の奥ゆかしさや懐の広さが、呼び方に現れていると思うのです。
 対して、フリーターやニート。確かに、彼らの立場や境遇をズバリと言い表してはいますが、そこに奥ゆかしさや懐の広さを感じることはありません。何でもかんでも横文字にした結果が、フリーターやニートが増えた原因とするのはいかにも極論です。しかし、人や世間の感情は言葉に反映します。私たちは、より直接的な表現の方が効率的だと思い込み、居候という言葉を死語にしてしまい、結果、居候の居場所をも奪ってしまったのではないでしょうか。
 昔は就学も就職もしていない若い人を「家事手伝い」とか「書生」と呼びました。企業や商家には「見習い」という人達も数多くいたのです。いずれも、独り立ちはしていないのですが、その為の助走期間にある者、という雰囲気がありました。因みに、イギリスでは、離職中や求職中の人、育児又は家族の世話になっている人、無給での休暇取得者、病気に罹った人や障害者、ボランティア活動者までもNEETと呼び、日本のような「ひきこもり」とか「働く気のない若者」というイメージは無いそうです。
 もう少し、彼らをやんわりと受け止めたらどうでしょう。お手伝いや見習いでいいじゃありませんか。正社員か非正社員か、正規の雇用者か否かで括るのではなく、もっとふんわりとした緩々(ゆるゆる)の状態を容認してもいいのではないでしょうか。

ここで一句。横文字で、居候がいなくなり。