【Vol.65】「希少価値」を見直そう

 私達は、「より多くの人の為に」とか、「もっと大量に作ってコストダウンを」などと、何気なく、もっと言えば口癖のように言う事が多いようです。
 先日、開発会議の席で、ある商品を普及させるためにはどうすれば良いのか、という議論になったときのことです。「この商品は、あんまり多くの数を出さないほうが良いのではないか」という意見と、「いや、商品は普及してからこそ価値がある」という意見が真正面からぶつかってしまいました。お互いの意見は、考えればもっともな話で、開発者の立場で言えば、多数普及するのが良いに決まっています。しかし商品の価値は、本当に普及した数の高(たか)で決まるのでしょうか。

 開発者は、開発商品を精一杯良いものにしようと頑張ります。間違っても「低級なものにしよう」などとは考えません。いつも言うように、開発とは限りなく前向きな創造行為であり、知的な生産活動です。従って、開発とは元々価値を創造する付加価値の高い作業であると言えるでしょう。
 しかし、多くの場合、開発した商品を売り出す段になると、折角の知的生産活動の成果を、数量というバロメーターに頼ってしまうのは何故でしょうか。ここに、私はこれまでの日本式生産体制に隠された落とし穴があるように思うのです。

 「希少価値」という言葉があります。辞書を引くと、そのものが世間に少ししかないところから生じる価値のこと、とありました。この、「少ししかないところから生じる」、というのがミソで、本来の商品が持つ性能に由来するものではないのだそうです。
 商品本来が持つ価値ではなく、存在する数量的な要素で価値が変わる。言い換えれば、少ないほうが価値があると言っているのです。私は、この意味はとても大きいと思います。勿論、駄モノではいけませんが、同じ性能ならば少ない数を出したほうが価値がある。それなら、そのほうが開発者の求める価値を一層増大させることに繋がるのではないでしょうか。

 絵画の世界を考えてみましょう。例えば版画。版画はオリジナルで少量の作品が価値があるとされ、少ない制作数であればあるほど高価です。いくら大家・巨匠の作品でも、多数制作されたとなれば、結果は安いものになってしまいます。
 商品も同じです。買う側は、ある量まで許容しますが、あんまり同じものを持っている人が多くなると、途端に飽きがきて、価格も安くなってしまいます。自分だけのもの、或いは本当に少数しか共(所)有する人がいないもの。これが人間の欲求の本質的なものかも知れません。

 先の開発会議が終わった後で、「究極の希少価値は何だろう」と誰かが言いました。「それは愛です」と言ったら、周囲が暫く真空状態になってしまいました。
 皆さんは何と答えますか。