【Vol.47】通り過ぎてわかること

 ふるさとの友人から相談されました。大学卒業後すぐに地元に帰り、今では商店街のリーダー格になっている、高校時代は応援団長だった熱血漢です。御多分に洩れず、中央から進出して来た郊外型大規模店に押され、長期低落型の典型的なパターンに嵌まってしまった、我がふるさと「清水銀座」(何故か、地方には○○銀座というのが多いのです)の話です。「昔のように、活気のある町にしたいんだ」。熱く語るその眼差しは、高校時代と変わりません。私はと言えば、「それは分かるが、昔のようにはムリだぞ」。そう言うしかありませんし、また、そう言いながら、案外、冷静に言える自分が意外でした。

 数日後、新幹線のぞみに乗って、いつものように、あっという間にそのふるさとを通り過ぎることがありました。高校時代まで過ごした我が町。幼いころに遊んだ山や川、実家の周辺の家並みが、時速270キロのスピードで通り過ぎて行きます。歩けば何時間もかかるふるさとの広がりが、たった数十秒で隣の市に変わってしまいます。「小さな町なんだ」。と思うと同時に、「そうか、通り過ぎるから分かるんだ」と気付きました。

 そうです、私が以前から感じていたことは、実は、清水はもう典型的な少子高齢化地域であり、かつてのように若者が闊歩し、商店街に人が溢れるようなことは有り得ないという、冷めた第三者としての認識だったのです。言い換えれば、余程のことが無い限り、清水銀座に若者は帰って来ず、老人は家に閉じこもるだけの、ありふれた地域の現象です。厳しい言い方ですが、それが現実です。
 このように、私たちは通り過ぎてから気付くことが、案外多いのではないでしょうか。ふるさとの町が小さいと気付くのは、通り過ぎることによる、周囲や他の地域との比較ができたからで、そこに留まらないから、あるいは留まることの無い状況の中での対比が、無意識に実行された結果です。

 そう言えば、たまに私の事務所の周辺を歩くと、思わぬ発見に出会うことがあります。小奇麗なブティックが開店していたり、テナントが替わったりしています。事務所への行き帰りだけでは気付かぬことが、実は、通り過ぎることによって認識することが出来るのです。

 友人に電話して言いました。「たまには東京からのぞみに乗って、通り過ぎるのも良いぞ」。

 行き詰まったり、困ったりした時、敢えて通り過ぎてみるのは、如何がでしょうか。